ケースごとに事情は異なるかとおもいますが、私見を申し上げれば細かいことで学校に苦情を言いすぎるのではないかと思います。
本来学校は、教育を教えるところで躾を教えるところではありません。
親が自分の子供の躾を放棄して、学習に関しては教師を信用せず塾通いをさせ躾を教師に威依存するケースが多いのではないでしょうか?
本来教師は生徒に授業をし課外授業の指導をしますが問題に対し厳しく指導したりすると体罰や言葉の暴力などと足枷を行いそのうえで我が子は問題ない他の子どもの問題を何とかせよと責任を押し付けすぎです。
躾のできない親が多すぎるのです。
・給食時に「いただきます」というのに対し給食費を支払っているのに施しを受けている
ような作法はおかしい
・氏名欄と記載有るのは、人種差別でなので『名前欄』にせよ
・給食の際に自分の子供が両手に牛乳瓶を持って故意にぶつけてガラスの破片が目に入って大けがをした。教室に先生がいたのだから我が子を止めさえなかったのは学校側の責任と当人とその親が学校を告訴
など、あきれてものが言えないような実例があります。
学校側にしてみればモンスターペアレントとしか言いようがありあません。
学校に知育徳育を求めず塾通いをさせ、躾を求めるのならばいっそ学校に行く必要はありません。
いじめの問題ももともと、そうした躾のできない親の責任のツケがたまったものです。
自分が嫌がることやつらいことは友達にしてはならない。
まずそれぞれの親が子供に躾をして、学校の先生は教育者で教えをよく守ることと我が子に言って聞かせる習慣を放棄していたのでは教師が生徒に何を言っても無駄です。
親がPTAでまずするべきことは、自分たちが我が子に何を躾けて、足りないところを教師の視点で見てもらうという姿勢が大切です。
教職の授業では教育原理や児童心理など十分な知識と経験を積んでいますがそれを生かすためには教師や学校に対する信頼と親の躾が必要であることをまず認識するべきだと思いますが。
===補足===
親が教師を信頼しないような教育環境で教師は教育には情熱を燃やすことはできないでしょう。
現代では、教育は産業になっており金儲けの企業です。
私立の学校法人などはスポーツで名を売るか、進学校で名を売るかいずれにせよどちらも教育の本分ではありません。
教師をそんな金儲けの場で飯の種とする労総者にしてしまったのは親の学校への不信感でしょう。
人を育てることに情熱を持ち人情味のある先生がいられない職場にしてしまったのです。
こまかい内容は忘れてしまいましたが、
武田鉄矢氏が高校生のころは不良で掃除をさぼり教室で友人と煙草を吸っていました。
注意した女子に教師に告げ口をしたら許さないと脅したところ、その女生徒は泣きながらその場を去りましたが、次に教室の戸が開いた時にまた女子が来たかと振り返ったらそこに怖い先生が立っていた。
悪くすれば停学かとすっかり観念していると、「俺にも煙草をすわせろ」とその教師が言う。
「ピースかさすがタバコ屋のせがれだな、俺が吸っているのは新生だぞ」とその場で一緒に吸っていたが、生徒たちは恐縮してしまい雷がおちるのが今かとおびえていた。
その後、武田達が何かもめごとを起こしそうになるとどこからともなくその教師が現れて、「武田、今日は煙草をもっとらんか?」と機先を制したと。
業を授けると書いて『授業』とはうまいことをいう。
・・・・・と学生時代を振り返ったエッセイで書いていました。
勉強を教えることも大切ですが、生徒たちの目線で行く末を見守るこのような教師は今ではPTAも教育委員会も認めないでしょう。
綺麗ごとばかりを親も学校も言い過ぎて却って教育の理想からかけ離れてしまっているのです。
親は子供をしっかり躾をする。不要な携帯電話は持たせない。学校に公衆電話を設置すれば十分。それでも不安ならばプリペイドの携帯電話を持たせる。
生徒同士のことは生徒で解決させる。先生は相撲でいえば行司のようなもの。公平にさばき、長所を見つけのばす努力をする。
親も学校も当たり前の役割分担をしないから教師に負荷がかかりすぎて目が届かなくなるのです。
課外授業、修学旅行ひとつとっても陰でどれだけの準備をするか負荷がかかるか理解しないでクレームを出されたら教師はノイローゼになります。
私が中学生のころは1クラス45人ぐらいでしたが、担任の先生の目がとても行き届いていました。それは先生と生徒に信頼関係があったからです。
先生は尊敬の対象でした。威厳をもち信念に従い時に厳しく指導しました。
今はゆとり教育が叫ばれ、30人学級になりつつありますが、負わされる責任が多く重すぎて自由がなく却って生徒に目が行き届かなくなっていると思います。負のスパイラルに教育環境が陥っているのです。
そうしている責任の一端は学校というより親たちだと思います。
そして教育で飯を食う私立の学校や教育産業が不要にならなければ問題は解決しません。